日出づる里活性化組合
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地域の観どころ

 穂積の里を歩き、昔は御室と呼び古くより拓けた山里の 名所旧跡を巡り、新しい穂積の魅力を発見しませんか。
 是非一度訪れて下さい。穂積の新しい発見がありますよ。

活性化組合加工直売所

法論石

小室山の三門

 

 

高村幸太郎碑

小室山の鐘楼

増穂南小学校

関東富士見百景碑

①徳栄山妙法寺

当山は(西暦688年)、千三百年もの昔、人皇41代持統天皇の御代、役(えん)の行者が創められたもので、東33ヶ国の山伏(やまぶし)の棟梁(つかさ)として栄えた名刹でした。
文永11 (1274)年、身延山へお入りになった日蓮上人が日郎、日興の2人を伴として、小室山に向かわれ、時の住職であった善智法印と法論になりましたが、善智法印は日蓮上人の法力に負けてその弟子となり、真言宗から日蓮宗に改宗して「徳栄山妙法寺」の寺号(じごう)を賜りました。 
徳栄山妙法寺は、昭和47年8月13日夜半の火災により焼失した。その後再建を計画したが目的達成には至らず、平成8年5月小室山復興の為の奉賛会を設立し、幾多の困難を乗越え平成12年11月3日に本堂を落成することができました。

徳栄山妙法寺の本堂

庫 裏

鐘 楼

徳栄山妙法寺の「秘(ご)妙(ふ)符(う)」井戸

 当山の開山である日傳上人が、日蓮大聖人から直々に相伝(そうでん)を授けられた御妙符小室山の代々の貫首に伝えられ、「小室の毒消し秘(ご)妙(ふ)符(う)」として多くの人々がその霊験(ごりやく)を受けています。
 小室山の一切経蔵のうしろに秘(ご)妙(ふ)符(う)の井戸があり、これは天竺(てんじく)の阿鎒(あのく)達(だつ)池(ち)の水と底が通じていると言われ、どんな時も濁ることがありません。
 当山の切紙(きりかみ)相承(そうじょう)の毒消(どくけし)御符(ごふう)は、この井戸の水を汲んで、貫首みずからが相伝に則って認めるもので霊妙の効験が非常に顕著で導く皆様にお頒けしています。

秘妙符井戸

②西峯七面堂

 西峰七面堂は、法華経の守護神七面天女を祀る。
 七面天女は福徳を授ける吉祥天の生まれかわりとも伝えられ、その住まう地は「鬼門の一方を閉じ他の七面を開く」と言い、鬼門を守ることから名付けられた七面山である。法華経守護のために、小室山も文永時代に改宗して以来、現寺勧請し鎮守の神として尊んでいた、二十三世日這上人(1707年)の時代に、寺の西峯に七面天女および北辰妙見大菩薩をお祀りし、代々小室山で管理に当たり、小室山奥之院と伝称されるようになった。

七面堂

七面堂からの富士川

③小室山門前五軒

 小室山は日蓮宗に改宗してから数えても七百五十年の歴史を有する古刹(こさつ)である。
 往時(おうじ)、寺の運営の補佐役として小室山を支えて来た脇坊六供(六つの坊(寺))と門前五軒と言われていた家々の存在である。
 門前五軒は(1585年)頃武田信玄から遣わされた近侍の者たちで、三門の前に居住して、山内の警護を始め、小室山所有の田畑や八十町歩に及ぶ広大な山林の管理にも当たっていた。
 その五軒は望月左近、有泉五兵衛、橋本増右衛門、井上嘉兵功刀伊兵衛とあり、今もその子孫のほとんどは門前に住んでいる。

徳栄山妙法寺の門前

④ダイヤモンド富士

 当町富士川町高下(たかおり)地区は、このダイヤモンド富士の絶景ポイントです。
 ここからの富士の眺望は、関東の富士見百景に認定されています。
 カメラ愛好家やテレビの取材など、多くの人が訪れます。
 冬至から元旦にかけて、太陽が富士山頂より昇るダイヤモンド富士を上高下から望むことができます。

ダイヤモンド富士写真

「無料高下ダイヤ...」の画像検索結果

 

 

ダイヤモンド富士撮影ポイント

富士見100景記念碑

⑤高村光太郎文学碑

 「うつくしきものミつ」光太郎直筆の文学碑
 ゛うつくしいものミつ  とは美しいもの三つあることで、それは、霊峰富士の美しさ、黄金色に実る柚子の美しさ、 そこに住んでいる人々の心の美しさを詠んだと言われています。
 昭和17年、日本の母「山道のおばさん」取材の為に訪れた光太郎に迫る富士は「私は富士の名所を数多く尋ねたが、こんな立派な富士は初めて仰いだ」感歎させました。

高村光太郎直筆の文学碑

高村幸太郎の 山道のおばさん(日本の母)

 汽車にのり乗合にのり馬にのり、谷を渡り峠を越えて又坂をのぼり、甲州南巨摩郡の山の上、上高下(かみたかおり)という小部落の通称山道のをばさんを私は訪ねた。
 「日本の母」といふいかめしい名に似もやらずをばさんはほんとにただのをばさんだった。
 「遠いとこ、さがしいとこへよくお出でしいして」と、筒つぽのをばさんは頭をさげた。
 何も変わつたところの無い、あたり前な、ただ曲つた事の何より嫌ひな、吾身をかまはぬ、働いて働いて働きぬいて、貧にもめげず、不幸を不幸とも思いひもかけず、むすこ二人を立派に育てて、辛くも育て上げた二人を戦地に送り、一人を靖國の神と捧げてなほ敢然とお國の為にと骨身を惜しまぬこのただのをばさんこそ千萬の母の中の母であらう。
 あけつ放しなをばさんはいそいそと、死んだむすこの遺品をひろげて手帳やナイフやビールの栓ぬきを余念もなくいじつている。
 村中の人気がひとりでにをばさんに集まり、をばさんはひとりでに日本の母と人によばれる。よばれるをばさんもさうだがよぶ人々もありがたい。
 いちばん低い者こそいちばん高い。をばさんは何にも知らずにただうごく。
 お國一途にだた動く。 「心意気だけあがつてくらんしよ」と、山道のをばさんはうどんを出す。
 ふりむくと軒一ぱいの秋空に、びつくりする程大きな富士山が雪をかぶつて轟くやうに眉にせまる。
 この富士山を毎日見ている上高下の小部落に「日本の母」が居るのはあたりまへだ。

昭和17年   高村 光太郎

今も残る山道のおばさんの家
高村幸太郎が馬に揺られ、山道のおばさんに逢いに訪れました。

⑥上高下の馬頭天神

 この神社を飾る彫刻は、伊豆松崎の彫刻師、小沢一仙のもので、文化的価値が高い、小沢一仙は幕末の尊攘(そんじょう)運動家としても知られている、天保元年生まれ。安政のころ生地伊豆江奈から甲斐にうつり、小沢一仙を名のる。
 維新のとき公家、高松実村を隊長とする新政府軍を結成、勅命のないまま甲府にはいったが、偽勅使として慶応4年(1968年) 3月14日39歳で処刑された。
 本姓は石田 初名 馬次郎 彫刻師 石田半兵衛の長男

小沢 一仙の彫刻

裏に一仙作を記してある

馬頭天神社

仙洞田地名と姫宮神社

仙洞田集落の由来 甲斐源氏の子孫で秋山光朝の七男、南部次郎重清は第102代の後花園天皇 後の文徳院の仙洞御所に北の武士としてお仕えしていた。かねてから重清は浅黄姫を恋慕っていた。浅黄姫も美男のうえ平生から忠実の心の持ち主だと知っていたし、院も重清の家門も賤しからず、心根も真っ正直な性格であることが判っていたので貴い姫ではあるが重清に嫁ぐことになった。
一旦官を退き浅黄姫と故郷甲斐の国に帰り、街道筋の高下村に居を定め、更にそのあたりの土地を開拓し懐かしい御所にちなんで仙洞田とよんだ。

 重清が再び上京し京都に向かった。しかしその後戦乱が長引き重清からの音信も途絶えてしまい、姫は侘しさ、寂しさも通り越し、あまりの嘆かわしさに我慢の緒が切れて、下女を伴って川に身を投げてしまった。その後この淵のあたりを通行する者が水に落ちて溺死したり、また病気なったり、いろいろ異変が生じた。
 これは浅黄姫の祟りではないかと恐れ,寛正4年3月小室山第6世日顕上人に厄払いの祈祷を願い、姫宮神社と名付け氏神として祀った。

本殿には伊豆松崎の名工、小沢半兵衛の彫刻が施されている。

姫ン淵・下女淵

道利川に浅黄姫と下女が身を投げた淵があります。
姫の墓は延寿寺にあり、下女 の墓は淵のかたわらにあります。

延寿寺

南部次郎重清が浅黄姫の菩提を弔うため、延寿寺を創立、姫に遅れること9年に没した。里人は姫の遺品が収めてある延寿寺に合祀して、2人の墓を建てた。

重清と浅黄媛の戒名
 重清院殿法仙日洞居士    重清
 仙洞院殿妙重日清大姉 長禄三年(1459)7月11日 浅黄媛

延寿寺

黄媛と重清のお墓(上部に菊花の御紋章)

日蓮上人の墓

日蓮上人
 日蓮上人は貞応元年2月16日(1222年)現在の千葉県鴨川市、旧・安房郡天津小湊町誕生、幼名は「善(ぜん)日(にち)麿(まろ)」。16歳で出家し清澄寺でお坊さんになる。
 文永11年(西暦1274年)5月17日身延山に入られる。
 その年の5月28日に日郎、日興の二人を御伴として、小室山に向かわれ、善智法印と法論を闘かわした。
 法印は敗れ日蓮上人の弟子になり、真言宗の小室山から日蓮宗の徳栄山妙法寺に改められた。
 日蓮上人は1282年(弘安5年)10月13日辰の刻(午前8時頃)、池上宗仲にて入滅。享年61歳
 徳栄山妙法寺にある日蓮上人のお墓は元禄甲戌年(1694年)ですので日蓮上人が没してから約412年後に建立されたものです。

⑩綱敷天神社

 この天神は「綱敷天神社」といい、菅原道真公を祀ったものです。
 延喜10年(西暦910年)ごろ創建されたもので、昔、小室に口止番所があったころ古屋という役人がある日病気になり、医者にみてもらったが治りませんでした、病気に苦しんでいるとき夢の中に綱を敷く高貴な方が現れ、「あなたの苦しみを救いましょう」と夢のお告げがあり、夢から覚めると病気は治っていました。古屋という役人は、
夢のお告げのあった田之頭に綱敷天神社をつくり祀りました。 
 菅原道真公は承和12年(西暦845年)生まれ、5歳の時、庭前の梅花を見て、和歌を詠じ、11歳にして「月夜見梅花」の詩を作られました。33歳で文章博士となり、42歳の時政治力を認められ四国に赴任、昌康2年(899年)
55歳の時右大臣兼右近近衛大将に任命される。
 延善3年(903年)2月25日享年59歳で薨去された。

⑪妙石山懸腰寺 の法論石

 小室の土録にある大石で間口1丈2尺、奥行き6尺、高さ7尺あり、石上に堂宇があり妙石山懸腰寺という。文永のころ、真言修験者善智法印が、東33か所の山伏の頭領と称して、御国院金胎寺の住職となっていたが、
そこへ日蓮上人が来てこの大石の上に座し、集まった村人に仏法を説き聞かせていた。これを聞いた善智法印が怒り日蓮上人と会見し、種々法論を交わしたが、とても日蓮上人にはかなわない。
 そこで善智法印は日蓮上人が座っている一丈余りの大石は、お経を唱えると虚空に昇り始めた。日蓮上人がお題目を唱えると一丈余り昇るとピタリと静止した。日蓮上人は、さあこの石を虚空に縛り留めたので下ろしてみろよといった。善智法印は汗を流し祈祷したが、大石は空中に静止したままビクとも動かない。日蓮上人がお経を唱えると大石は地上に降り元の位置に収まった。その後小室山は日蓮宗に改宗し、日蓮上人から徳栄山妙法寺の寺号を賜り、法印は名を日傳と改めた。

妙石山懸腰寺

善智法印がと日蓮上人が法論を交わし虚空に昇ったとされる大石が今も残っています。法論石と呼ばれている。

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